90年代の中頃、僕は両親の両脛にガッツリかぶりついて初めて渡米した。ギターすら持たずに。

それより何年か前、僕が中学時代に出くわしたパンクロックとやらは「なんでも自分のやりたいようにやっていい」という草の根の優しさよりも、地元ヒエラルキー内における暴力的な処世訓BGMのように聞こえ、本能的に迂回ルートを探してしまっていた。パンクロックのコードは、それまでに、退屈すぎるギター教則本から僕を解放してはくれたが、そこに自分が何らかの意味を付け加えるなど恐れ多い、という気がしていた。

パリッとした身なりで女子校に通う彼女を残し、アメリカへ渡り。。。そこで全てが変わった。これをパンクロックと呼んでいいのかは分からなかったが、身を捧げようとすら感じられる音楽と出会った。

2年半後、伸び放題の天然ドレッド、ジャズマスター1本、4トラックに撮りためたヨレヨレのポップソング、将来のバンド名のリスト、スーツケース一杯の古着。。。それだけをもって帰郷してみれば、そこには同じ志をもつ仲間が待っていた。

覚えたての英語と下手くそなギターで、でも自分たちの中では世界最高のポップソングだと信じた楽曲で武装を固め、10年くらい25m. Floaterというバンドをやってみた。音楽的に求めるものは常に「未だ聞かぬポップソングの新たな地平」であったからこそ、行けども行けども目標が遠のいていく。いくつかの痺れるような体験ののち、やがてそのバンドは解散し、僕は結婚、就職。メンバーのうちの何人かが関西でも有数のライブハウスを経営しながら音楽をやり続けたりしているのを横目で見ていた。

僕の中でメロディを探求する悦びは薄れることはなかった。カスタードのように甘くて、柔軟な核となるメロディーをささくれた演奏で包み込む。。。これが僕の理想だった。かつてカセットMTRに録音していったように、今度はMacで宅録を始めた。程なくして父親の所有する森の中の小屋にボロボロの機材を運び込み、バンド編成で録音するようになった。同時に僕のソロとして旧知の仲間に参加してもらっていたプロジェクトがバンドの形を帯びてくる。すると、それらの楽曲をリリースするという必要性にかられるようになる。すぐさま自主レーベルの立ち上げを実行した。それがHome Recording is Killing Music (HRKM)。

このレーベルの下、Hunting Pigeonsというバンドで自分の音源を何枚かリリースし(この頃なんかのライブで東京に行った時、素晴らしい友人であり、ベーシストである某ミュージシャンの口添えにより、大手流通会社と契約できたのは非常に幸先が良かった)さらに、僕が20歳の時に僕の人生を変えてしまった張本人とさえ言えるシカゴのBottomeless Pitや、憧れ続けたシアトルのレーベル、Sub Pop所属のThe Obitsの日本盤リリース、そして日本国内の才能ある友人たちのバンドのリリースなどの機会に恵まれ、10タイトルまで数えるようになったHRKMのカタログは、僕にとってトロフィー陳列棚のごとくであった。しかし、完全にワンマンオペレーションであったHRKMの在庫管理や事務仕事を、昼間の仕事後の孤独な仮面残業でもって続けていく限り、これが僕個人の神殿で終わってしまうのではという予感を拭うことはできなかった。

半年ほど前、それまでの仕事量の半分程度の業務から退くことになった。計算上は自由な時間が増えるはずだった。そこで僕は何か、もう少し日本、というか僕の生活圏において、僕自身の情熱に火をつけるようなイベントを展開したり、家で友人に最近知って本当に感動したバンドのアルバムを無理やり聞かそうとするかのような音源リリース、というような事をしていこうと考えた。

僕には、これまで僕が成し遂げたんだか無かったんだかよくわからない20年という音楽人生で出会ってきた、数は少ないものの慈悲深く、強烈な個性をもつ理解者、というか僕が僕の味方だと勝手に思っている人たちがいる。彼らのやってきた事から学び、自分の仕事へと昇華する事が出来るのではないだろうか。ところが程なくして、こんな大言壮語を実行するほどの自由時間が無いって事に気が付いた。だったら、僕という人を理解した上で僕の考えている事を共有できて(しかも時間に余裕がある人)を探すしかない!どこにいるだろうか?と考えた数秒後に答えはあった。数年前からCatholic Girlfriendsというバンドで僕の横でベースを弾いているMakiさんだ。かくして、レーベル名を決定する段階から彼女との共同オペレーションが始まった。僕らのレーベルの名前は、Custard Coreに決定した。

早速僕らは夢の実現に向けてプロジェクトを開始した。とあるシアトルのパンクバンドの日本ツアーである。そのバンドの所属レーベルであるKill Rock Starsの担当者より早速メールが届いた。「ところで、今まで誰とどんな活動をしてきたんだい?」僕は即座に、十数年前、現在神戸のHelluva Loungeの店長であり、当時25m.でベースを弾いていたキムと、同じくHelluvaのPAであるオグヤンと共に、前述の通り僕の人生を変えたバンドSilkwormの来日を実現させた事例について、心から誇らしくしたためて返信した。すると次の日その担当者より「SilkwormのTimから君に対するこれ以上ないってくらいの評判を聞いたよ。一緒にやろうじゃないか」との返信を頂いた。同じような事はその後数回続いたし、今後も彼のところへ僕の身元調査が入るのは必至だろう。感動の涙を拭いながらもぼくはTimに「いつも悪いね。この手の問い合わせに対応する自動返信のテンプレートを作ったほうがいいんじゃないの?」と提案してみた。。。

要は、僕らは、僕らが心から価値を見出している音楽に対して、誠実に愛情を注いでいくことでのみ、Custard Coreを成功に導くことになるのだろう、ということ。そういった行動の一つ一つを実績として残していく必要がある、ということ。

Custardのコアがトロトロで甘いのは僕らの情熱のせいだ、ということで、キックオフの挨拶と代えさせていただきます。

Custard Core
代表 白井 一石